
子どもが生まれる前、正直に言えばこう思っていました。
「これからは自分のペースでは生きられなくなるな」
「やりたいことは制限されるし、お金も時間もどんどんなくなるだろう」
事実、子どもがいると自由は確かに減ります。
- 朝まで寝ることは難しくなる
- 自分のためだけに時間を使えなくなる
- 外食も遠出も簡単ではなくなる
- 予定は常に“子ども基準”で変わる
最初はそれを“失うもの”だと思っていたんです。
でもある日、ふと気づきました。
減ったのは「自由」じゃなくて、「自分勝手」だったのかもしれない。
子どもと一緒にいることで、世界の“見え方”がまるで変わった
子どもと一緒に過ごすようになってから、
私は今まで見えていなかったものに、毎日触れるようになりました。
- 朝の光が意外と柔らかいこと
- アリが列をなして運んでいる姿
- 空に浮かぶ雲がやけに立体的に見えること
- 枯葉のカサカサした音が楽しいということ
これまで見えていなかったのではなく、
“見ようとしていなかった”のかもしれません。
子どもは、それを私の目の前に何度でも差し出してくれます。
「ねえ、見て」
「これ何?」
「なんか面白い音がする!」
子どもがいると、日常が発見の連続になります。
公園で過ごす時間が、いつの間にか“自分の癒し”になっていた
ある平日の午前。
保育園はお休み。天気が良かったので、近所の公園へ。
子どもはひたすら砂をいじっていた。
私はただ、ぼーっとベンチに座っていた。
ふと周りを見ると、他にも親子連れが数組。
どの親もスマホを触らず、ただ子どもを見ていたり、しゃがみこんで虫を一緒に探したりしている。
その光景を見て、ハッとしたんです。
「これ、1人じゃ絶対できない時間だな」と。
大人1人では、公園で遊べない。下手すれば通報される
冷静に考えてみてください。
- 平日の朝10時、ブランコに乗っている大人
- 砂場でしゃがみこんで石を集めている大人
- 滑り台の下で待っている大人
…怪しいですよね。
なんなら、少し怖い。
でも子どもが一緒にいるだけで、それは全く自然な光景に変わる。
- ブランコを押してあげる親
- 一緒に砂遊びを楽しむ親子
- 子どもが滑り終えるのを待っている親
子どもがいると、大人は“社会的な存在”として、そこにいられるようになる。
つまり、自分ひとりでは入れなかった“穏やかな場所”にも、
子どもがいれば、自然と居場所が生まれるんです。
子どもと一緒にいる時間は、意味のないようで、すごく意味がある
大人になると、どうしても時間に“意味”を求めがちです。
- これは自分の成長になるか?
- この行動は将来に繋がるか?
- お金や成果に変わるか?
でも子どもと一緒にいると、
そんな思考はどんどん崩されていきます。
- 同じすべり台を何度も滑る
- 虫をじっと観察するだけで30分
- 石を拾って名前をつけて並べるだけの時間
そこには生産性なんて1ミリもない。
でも、確実に「満たされる感覚」がある。
子どもが教えてくれるのは、
“今この瞬間”をそのまま味わうことの豊かさ。
豊かさとは、「稼ぎ」や「効率」ではなく、「余白」のことなのかもしれない
子どもがいなければ、
きっと私は一生こんな時間を過ごさなかった。
- 自然の中で立ち止まる
- 小さな声を拾う
- 無駄の中にある喜びを味わう
これって、もしかすると、
大人が1人で“がんばる”人生では絶対に辿りつけない場所なんじゃないかと思うんです。
もちろん子どもがいることで我慢しなきゃいけないこともある。
時間も、お金も、体力も、消耗することがある。
でも、得られるものはそれ以上に大きい。
それは、“自分だけの人生”では見えなかったものたち。
子どもがいるから、人生は“広がって”いく
- 公園で自然と声をかけてくれる近所の人
- 保育園の帰りに立ち話をする同世代の親たち
- 一緒に笑って、泣いて、怒って、成長していく小さな人間
子どもがいると、自分だけの世界が、他人にひらかれていく。
大人ひとりで生きていた頃にはなかった感情や繋がりが、
自然と生活の中に入り込んでくる。
それは決して、「狭くなる」ことなんかじゃない。
むしろ、人生が“深くなる”ということ。
子どもは、人生を「不自由」にする存在じゃない
たしかに、手間はかかります。
自由に動ける時間は減ります。
やりたいことが後回しになる日もあります。
でも──
- 世界を丁寧に見るようになった
- 小さな幸せをキャッチできるようになった
- “効率”よりも“感情”を大切にできるようになった
これって、ものすごく豊かなことだと思うんです。
子どもがいるから、人生が愛おしくなる
1人ではきっと来なかった公園。
1人では気づけなかった光の色。
1人では感じられなかった温度。
子どもがいるだけで、それが日常になる。
ああ、自分が望んでいたのは、
こういう“何でもない時間”だったんだと──
最近、よく思います。
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